シャープでスタイリッシュ、極限まで無駄を削ぎ落とした機能美が特徴的な「DOCUMENT」。
このシリーズの起源である「トライオンバッグ/Aシリーズ」の生みの親でもある寺田為彦さんに、製作の経緯やモノづくりに対する思いなど誕生秘話を伺いました。前後編でお届けします。
きっかけは偶然の出会いから
1980年代はバブル景気で、人々のブランド志向が一気に高まった時代である。
どのファッション誌もページをめくれば華美な広告で埋め尽くされる中、映画のワンシーンのような写真と詩的なコピーで目を惹くのは、新進気鋭のバッグブランド「トライバッグス」の広告だ。デザイナーの寺田氏が欧米での旅の道中、自らシャッターを切った「何者でもない、ただ人がそこに生きている」瞬間。モノトーン調の写真に、意味深な言葉が光る。
「機能は元気か」
それは「あなたが先日買った、我々のつくったバッグは、今も確かに役立っているのか」と問う、当時の「売るが勝ち」的なブランド戦略とは一線を画したプロモーションだった。
1990年代後半に、大阪のなんばシティにバッグ店を構えていた寺田氏は、トライバックスの商品をはじめ様々な革バッグを販売していた。什器も何もないだだっ広い店内を、200号から300号の絵画で埋め尽くしたユニークな店構えだった。
実はその絵画は寺田氏の知人で著名なアーティストの作品なのだが、店の前を通る人々はそんなことは知らない。ただ、風変わりなデコレーションに足を止めて店内に入ると良質で安価な革カバンが並んでいるのだ。
「この小銭入れの形、良いな。うちで真似して作って売っても良いか?」
ある日かけられた、冗談とも本気ともつかない言葉に振り向くと、立っていたのが、トライオンの前社長だった。
「いくらでも作って売って構わんよ(笑)」
初対面で、二人はすぐに意気投合した。
動き出した時間
野球グラブの「機能」を追求してきたトライオンは、革の縫製技術を活かした新規事業として、90年代にバッグという「装飾品」事業をスタートしていた。バブル崩壊以降、ファッション市場のカジュアル化・シンプル化や、低価格・良品質需要に伴い、ライセンスブランドを中心にメーカー問屋の倒産が相次いだ。
それはトライオンのOEM顧客も例外ではなく、売り先を失った大量のバッグが社内に積み上げられていた。寺田氏と出会ったのは、オリジナル製品の確立でバッグ業界への本格参入を模索している時期だった。
かつて「西のトライバッグス」とまで称された自社ブランドを持ちながら、やはり時勢の奔流に揉まれて苦渋を味わった寺田氏は、これからバッグ業界に立ち向かう厳しさを痛いほど理解していた。
「とりあえず、いま会社にあるもの持っておいで」
言われるがまま、トライオンの営業担当者が持ち込んだ商品の中から、寺田氏の目に留まったのは、野球グラブの残革で作ったパッチワーク製品だった。高品質でありながら、残革を使用することで低価格に抑えていた本革製トートバッグを、自店で瞬く間に売りさばいた。
「で、自分らの手に残ってるものは何があるの?」